天文台跡地になった手のひらに日暮尾花が賑わっている
連作「どちらだろうか?」は、滅びのあとの風景を受け入れることから始まる。だが、この滅びというのがなかなか掴みづらい。
跡地とはふつう、「もう長らくそうである場所」である。天文台がその役目を終える。すると、人が去り、施設としての機能が停止し、建物や看板などの外形だけが取り残された状態になる。ゆっくりと色褪せていく、思い出される機会を失っていく場所。跡地を訪れるときに人が感じるのは、人のいない場所、人の関わらない場所にだけ流れる時間の茫洋さなのではないかと思う。
だが、この歌では突如として「跡地」が現れる。天文台が建つことも、古びていくこともなく。自分の生活を動かしていたはずの手のひらが、無用で、硬直した、壊れかけた「天文台跡地」に突然変貌する。そんなの、変だ。でも、そこからこの歌とこの連作は始まるのだから、変と言うほうが変で。
瞬間立ち上がる跡地。そんなものをわたしたちは知らない。でも、それがあるとしたら、と僕は考える。それは例えば、数年前、疫病が日本に上陸して、外出すること自体がリスク視され、街の機能が全般に止まっていたときのような。はたまた核兵器で人類の大半が死滅したあとの世界のような。戻るべき賑わいがどこにもない、どこまでも廃墟であるような世界のことではないだろうか。しかし、そんな無限の跡地が生まれるとき、当然ながら僕たちはそこにいないはずだ。だからこの歌の主体は僕たちとはべつの人類かもしれないと思う。
主体はさして驚くことなく、自身に宿った、あたらしくて非人間的な賑わいをたのしんでいるようにみえる。そこが興味をそそるところで、そのおかげか、この歌は不思議に心地よいし、僕の知らない安心に満ちている。奇異を感じながらも、僕はすでにこの主体の充実感には共感してしまっている。
この無限の跡地は、どんな世界だろうか。主体以外の人間は生き残っているのだろうか。言葉を交わし、生活をともにする僕たちの世界とどれくらい似ていて、似ていないのか。連作に登場するひとびとには懐かしさも感じるのだけど、知らない顔を見せるのでうっかり近づける気がしない。
両親のお見舞いをする罅のついた魚眼レンズをうんと覗いて
「魚眼レンズ」の向こうにだけ病院があって両親がいる。人間はいる。だけど、主体と同じように不可逆な変化をこうむった姿だし、ちょっとやそっとじゃ触れられない場所にいるようである。
「魚眼レンズ」を「うんと覗い」た先とは、おそらく、この身体のままではたどりつけない場所だろう。交通も通信も遮断されているような気がする。でも、古びた魚眼レンズがそこを繋ぐ。人間はめったに役に立たないけど、生物も無生物も、言葉も、魔法のような力を発揮してしまえるのが穂波ひつぎの短歌の世界だと思う。「どちらだろうか?」では、彼らはより穏やかな表情をして、そして、ときおりびっくりするほど自由な跳躍を見せてくれる。